助川喜四郎(明治16年 - 昭和38年)は、大正4年に神奈川県立衛生試験所に入所、狂犬病や天然痘の研究に着手しました。
大正10年に助川梅野法とよばれる犬体注射法を完成し、また、天然痘の病原体の鶏卵内培養にも成功しました。
ウィルスの研究の傍ら、昭和3年に土浦市に昭和病院を設立し、亡くなる直前まで、地域住民の診療にも深く携わってきました。
現在、助川喜四郎の資料は多く残されていませんが、ここに一部紹介いたします。
医学研究及び業績
狂犬病に関する研究
大正4、5年頃、狂犬病流行の兆を呈し、被害が広がる折、 梅野信吉より、病理学の権威であった草間滋を通じ、助川喜四郎へ狂犬病に関する相談がありました。 当時、人体に狂犬病予防注射する方法が行われていましたが、 応用接種しても発病する事があるため、更に進んで犬体に予防接種する研究を行う事としました。 大正5年に研究準備を整え、 大正6年2月、神奈川県知事の許可を得て横浜公園にて初めて犬体予防を実施、 大正7年10月までに6千余頭の接種を行いました。 この詳細は北里細菌学雑誌に報告されました。 大正10年、助川梅野法を完成し、狂犬病の予防は著しく進歩しました。 大正15年、7年間の研究の末、狂犬病原体を発見、学界発表を行いました。

天然痘に関する研究
当時、天然痘に対して種痘による予防が行われましたが、大東亜共栄圏内の天然痘撲滅のために、 厚労省では大量の痘苗を必要としていました。 当時、痘苗は牛痘をもとに製造されていました。 牛痘は、仔牛の腹部に出来た痘疱に石炭酸を加えて殺菌しますが、無菌にはできませんでした。 また、近年仔牛が高価となり、多数の仔牛を集めることが困難になってきていました。 そこで、助川喜四郎は痘毒の人工培養の研究に着手し、以下の点を目的としました。
1.雑菌を含まない純痘苗を得る
2.牛体を借りずに人工培養する

まず、試験管内の普通培地による数々の実験を試みましたが、すべて失敗に終わりました。 そこで生体組織による培養に目を転じ、大正11年、ついに孵化鶏卵による痘苗培養に成功しました。 さらに連続培養を試みて、関東大震災で研究室と設備の損壊等に見舞われながらも、昭和12年までに153代に及びました。 そして昭和15年、20年余にわたる成果を細菌学雑誌に発表しました。 その後、厚生省(現・厚生労働省)より鶏卵痘苗製造の許可が与えられ、 牛痘苗と並んで一般種痘として実施されるようになり、 昭和24年までに助川研究所に於いて500万人分の鶏卵痘苗を製造して世に提供しました。

発疹チフスの防除
終戦直後、発疹チフスが全国的に蔓延しました。厚生省の懇請を受けて、大量鶏卵培養に成功。流行を短期間に完封しました。

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